再生
2018.01.24 和歌山県伊都郡かつらぎ町に転居
2020.10.12 上記より高野町高野山に転入
これが生まれ育った長野県長野市から47年以上暮らした東京・神奈川を離れ、私が辿った極く最近の転移である。今住まうその高野山に於いてすら既に3年が過ぎ、当初、学校法人や民間事業所の仕事を経て知り合った多くの方との関係も変わってきて、一言でいうと高野山での暮らし振りにも大分<手垢>が付いてきたというのが実感である。
そのため、今の私が感じる種々の想いを前ブログ(「泣くな!こうやくん」)に書き続ければ、地域周辺の方との軋轢が増す可能性もあり、考えた末にブログを改めることにした。とは言え、周辺の方が新しいブログを見たら同じことだろうとも思うが、それらの方々が改めて新しいウェブページを開くほど私に関心があるとは思えないので、こうしよう。
何が高野山での私の<手垢>になっているか、それは徐々に説明を重ねるつもりだが、私にとっての<それ>は、当初から予想していた「中央と地方の経済・文化などの違い」の範疇には勿論、留まらない。
その範囲に包括されるものであれば何でもないが、高野山での経験から実は日本人の暮らしに深く根付く共同的な観念や価値が透けて視え、それらに対した根本的な<疑義>となって私の内で大きくなっている。
ただ、だからといって、高野山が嫌になったとかもう出たいなどと思う訳では全くない。むしろ、高野山周辺の自然の環境は、私の感性にはよく馴染める。この地の何処かに體が埋没されたら、むしろ幸せだとすら思う。しかし、この<地>に対する憧憬の一方で、私の<手垢=違和感>は結構深いところから湧いてきていると、益々自覚する。
そんな<想い>を改めてウェブページを開き直し見て下さる方に伝えられ、更にそれに猛烈な反論をいただけたらウレシイな~と思い焦がれている。
そうした不遜な下心を含め<想い>を<発信>することが、残された時間の中でとても重要であると信じていることに変わりはない。
そうした作業を改めて起こすゾ!との狼煙(のろし)を上げ、今回は一先ず遠吠えを終えたい。

右写真:まるで数珠のような竹箒の先の雪の塊。



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