再生3~2024年元旦
~新しい年となり、未だ私を忘れず送って下さる友人からの賀状を、有り難く、懐かしく拝見している、無作法、非常識極まりない私です。改めて、新年のご挨拶を申し上げます。
尚、前項で「前ブログ閉鎖の理由は次回述べる」とお伝えしましたが、特別な年明けになったため、更に次回に送ることにします~
昨年末、私の数少ない友人たちの3名もの方から、年賀欠礼を知らせる喪中葉書をいただいた。いよいよ私の順番もそう遠くないなと感じつつ開けた2024年早々、石川県能登地方を震源とする巨大な震度7の大地震、津波が発生。
目下はその被災確認の最中で、被害の全容解明にはまだ時間がかかるが、日本人にとって「正月元旦」という最も記念すべき日に起こったこの天災は、誤解を恐れずに言うと私にはある示唆が含まれているように感じられた。
それは、私が専らにしてきた分野で言えば、1955年から約20年続いた高度経済成長期を経て、福祉元年(1973年~)から社会福祉基礎構造改革(1997年~)を中心とする社会の一大変革期(~2020年?)、いわば国家の<青年期>を過ぎ、これから<老年期>に折り返そうかという驕れる<日本>の、リアルな現状を戒めるもののように思えたからだっだ。
最近の与党自民党の、前官房長官を始めとするドミノ倒しのような派閥幹部の政治資金汚職発覚や、後世に巨大な借財を残す万博の留めない追加予算計上などには相当辟易するが、こうした私的利益追求が見え隠れし、それを金科玉条の如く踏襲してきた政治(家)の基礎構造こそ根底から変わらなければ、続く社会の混乱や人心の荒廃など何をか言わんやである。
それらに気が滅入る年末であったが故、心穏やかに迎えたかった新年だが、現実は厳しかった。
とまれ、喪に服されている友人たちにはその心中をお察しし、地震と津波の甚大な被害に遭われている方には心からのお悔やみと、とにかく今は心身を休められる場に避難されることを願うしかない。
2024年1月1日午前6時過ぎ(大地震・津波発災前)、私は高野山の自室をソッと出て、自分の大型バイクに跨った。年末や元旦には用事や雨天でできなかった、母親の墓参りに行くためだった。
母親は生前、既に亡くなった姉と一緒に、自分の永代供養の墓を比叡山延暦寺の大霊園に設けていた。私がこちらに移るずっと前の話だから、私は住み出した高野山から比叡山に墓参りに行くという、歴女や歴男たちが喜びそうな聖地の往復だが、それは妙な縁という他なかった。
これまで何度かその地に車で行っているが、そこへの道は琵琶湖下端から「湖西道路」という国道161号線を辿るしかないので、いつも日本海方面を往復する車で大渋滞し時間がかかることを知っていた。そのため、特に今回は正月で当然混むだろうと予想し、敢えてバイクで行くことにした。
事前の天気予報では高野山、比叡山とも曇で、当日朝の確認では比叡山は「曇のち雨」となっていた。私は時々の小雨程度で済むだろうと高を括り、バイク行を決行した。
前日夕方頃止んだ雨で道路は僅かに湿っている程度で、早朝の霜や凍結に注意しながら高野山道路(旧有料道路)をゆっくり降り始めると、夜明け前の微薄な明かりがあるとは言え、深い山中はほぼ闇。極く稀に年始のお参りだろうか、山下から登ってくる車は闇を突くヘッドライトで事前に分かったが、私と出会うとかなり減速して避けてくれた。
そして、バイクに設置したスマホ画面でグーグルマップの検索ルートを確認しながら、やがて通称「京奈和(京都・奈良・和歌山)道路」と言われる有料道路に入った。ただ、有料とはいえ結構な区間は無料になっているので、いつもそこそこ車は走っていた。
この日も少し少ないとは言え車は通っていて、私は路面に注意しながらゆっくり進みたかったが、後続車はそれを許してくれなかった。何時もは安物だが風を通さない革のジャケットとパンツ、その下はヒートテックの上下に綿シャツとトレーナー、首にはカシミアのマフラーを巻いて、厚いグローブと専用シューズを着けたスタイルだったが、時速80kmほどを時々超えるスピードとなると、締め切らないジャケットファスナーの胸の隙間から冷たさが深々と伝わってきた。
しかも、京都手前で小雨が振り出し、それほど長く強くならないだろうと走り続けたが、極め付きは墓参りを終え、グーグルマップが選んだ高速混じりの帰りコース。ほぼずっと降り続きすっかり濡れている名神高速や京奈和を、時速80~100kmで後続車に追われながらバイクを走らせた時は、これで転倒したら母親の元行きだなと多少の覚悟をするほどだった。「良い子の皆さんは雨の日の高速バイク走行は止めましょう」と言うことだなと、年寄りの冷や水を実感した。
さて、元旦の比叡山延暦寺の大霊園も、静かな趣だった。
山全体を削り、「禅定○○」と名付けられた、数百はあろかという墓石群が立ち並ぶ広大な墓所エリアが幾つも続いて、ほぼどの場所からも遠くにある山並みに夕日がかかる様も望める。いつもとても静かで、お墓参りの人出は数えるほどの霊園だが、その日は割りと多くの方がいらっしゃってた。でも、静けさは何故かそのまま。 その点、一大観光地にもなり、海外含め多くの人出が耐えない高野山奥の院(世界最大の墓地)とはある意味かなり対照的で、これが現代的なマンモス墓所なのだろうが、お墓の在り様としては「これはこれ」なのかもしれないと思わせる。
私の印象風景に残る、母親の墓前法要時の僧侶読経の最後に「比叡山延暦寺」と書かれ花びらをかたどる紙「散華(さんげ)」を広く撒いた天台宗(日蓮宗もそうらしい)と、仏前護摩の炎を天井高く焚き上げ祈祷する(高野山)真言宗(天台宗や修験道含む密教は同じ)は、少なからず今の私の暮らしに係わりを持ち始めている。
この歳になるまで、<宗教>というものをむしろ否定し関心を寄せなかった私だが、高野山に移ってこようと思ったきっかけ(四国歩き遍路)を私に授け、高野山での暮らしを通して私が見え実感している<宗教>は、私の中にある宗教原理の<本質>、或いは「日本人の宗教哲学」のようなものを否応なく考えさせている。
そのアレコレについて、止むなく、次回から踏み込むことにしたい。





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