<当該>と<支援> その3

疑問1〕何故、我が国の大災害時の公的機関の救命救助活動は、被害状況に応じた即応体制や実効機能を持てないのであろうか?

疑問2〕何故、我が国の大災害時の民間ボランティア活動は、全国共通"all JAPAN"の受付窓口や活動調整のシステムを持てないのであろうか?

疑問3〕何故、我が国の大災害時の支援金・募金は、全国共通"all JAPAN"の窓口や供給システムを持てないのであろうか?

疑問4〕何故、我が国の大災害時の幹線道路や流通経路は、その損壊程度に拘わらず至急の障害物撤去や補修対応を受けられないのであろうか?

疑問5〕何故、我が国の大災害時の救命救助物資や支援物資は、全国各地に事前設定される拠点に整然と集積され、過疎地域を含む各地に隈なく至急配送されるシステムを持てないのであろうか?

 

 補足すれば、疑問1は自衛隊などその中心部隊の始動は、被災自治体の長から都道府県知事を経て、行政中核の内閣府や官房長官直轄の内閣危機管理センター、または招集される中央防災会議などに要請され発令実効されるようだが、そのシステムを被災状況の段階に応じて、自動的に実行部隊が速やかに動けるように改善する必要があるはずである。

 特に地震は、その後の同規模余震を含め進行形で継続するリスクなので、一刻の猶予もない。72時間が生命維持の境界線と言われる救命活動などにおいては、指示系統の確認や発令を待っていては、救われる命も救えない。

 疑問2は前投稿でも触れたように、発災直後から実働する民間互助集団・個人を、領域毎に実績や専門性に沿って全国的に組織化し、発災地点や被害状況、対応段階などに応じて即応させる全国統一システムを予め作っておくべきことを意味している。

 そうすれば、登録された各団体・個人は、そのシステムにより自分が参入すべき時期や程度を事前に承知することができるし、何より全国の支援力を、時間ロスや重複、無駄なく総結集できる基盤となる。

 疑問3では、支援金・募金の類を、様々な公的機関・民間団体などがそれぞれで行わず、全国統一の窓口・体制を作れば、積算される金額は一目瞭然。何より金銭集約は速やかに行われ、被災現地への送金も直ちに可能となるからである。もう、個々がバラバラに行う募金活動は止めてもらいたい。

 疑問4では、前投稿で現地建設業者が嘆いていたように、全国各地の実態に合わせ、一定地区毎に損壊時に補修などを行う業者・団体を、予め定めておくべきこと。仮にその地区が機能しない被災状況になれば、隣接する地区またはより広域エリアでそれをカバーする体制を組む。非常事態を想定し、どういう破損にはどの程度の修復を行うかなど、予めの修復程度を設定しておくことは可能であると思う。

 疑問5は、ある程度の広域エリアには、支援物資や救援器具などを大規模に保管できる場所を、予め設けておくこと。それは、各市町村によく見かける「災害時資材保管場所」などの規模ではなく、少なくても小規模の野球場程度の広さを確保した「災害時物資集積センター」などにする必要がある。

 かつそこに集まる物資等を近隣各地に届ける輸送システムを、地区在住の大規模郵便局や宅配業者などと事前契約し、運搬車両や輸送ルートなどを確保、確認しておく。それは、東日本大震災などでの物資集積機能や輸送機能の必要性を見ても、明らかである。


 以上、まだまだ疑問は湧くが、こうした地区毎に実質機能する全国統一・共通バージョンの災害対応システムを、「地震大国」日本としては早急に整備すべきではないか。

 大規模災害が国民に最初に意識され出した「枕崎台風(1945年)」などから既に80年余が経つ今尚、それがきちんと完備されていない現状を見ると、被災の<当事者性>は周囲の<他者>に中々伝わらない実態を見せ付けられているようで怖い。それは即ち、報道などで災害を事後認知する私たちの、被災<当事者=当該>に対する<支援>の在り方そのものが問われているに等しい。


 私が大学の頃、標記タイトルをテーマとして、仲間たちと盛んに論じ合ったことがあった。

 通っていた大学では、当時、所謂70年安保闘争の諸課題で活動する学生たちが少なからずいて、私は最初、大学が受け入れた車椅子聴講生の受講を支える学生間のボランタリーな活動に係わっただけだったが、それはやがて大学当局の姿勢を追求する集まりとなり、その渦中に身を置くようになっていった。
 
 その大学は設備は古く、車椅子聴講生が上階に上がるためのエレベーターは全校舎中に狭い1基だけ。勿論車椅子用トイレなど全くなく、学食がある建物の入口には階段しかないなど、学生たちによる移動・排泄・食事等の介助がなければ、その聴講生の受講は実質不可能だった。
 ボランティア学生たちは大学当局にその現状を訴えたが何ら反応はなく、「福祉系大学」を売り物にし車椅子聴講生を受入れているにも拘わらず対応しないその矛盾に、学生たちの疑問は高まり、それが当時の社会運動と同調して学生運動化したからだった。

 やがて、その車椅子聴講生は私の6畳1間の安アパートに転がり込んできて、2人の共同(介助)生活が始まってしまう。それは、朝の起床・着脱衣・洗面、食事・排泄、通学するための移動及びバス・電車の乗降、学内での排泄・食事、授業間論争・学内集会、移動・下車後の買い物・調理・食事、その後の飲み潰れるまで続く飲酒&討論、就寝、そして夜間の排泄等々、通学の有無に拘わらず1日のほぼ全てに介助を要する彼との生活であった。
 途中からは他の仲間が空いた隣室や近くのアパートに移ってくれ、共同介助体制を敷くことができたが、それは一言で言うと私だけでなく彼にとっても<壮絶な同棲>の一語であった。
 思い返せば、それを可能にしたのは、当時の社会正義に燃える社会全体の大きな畝りと、そうした正義感に基づく個人の強い<想い>があったからだったのだろう。


 <障害者問題>とは何か?
 こうしたテーマは、当時の私たちの日常的な論争課題であった。
 私と同棲した彼は、彼の年老いた両親や自宅での同居、介助の問題など、深刻な事情を抱えていた。それは一見すると、彼や彼の家独自の問題のようにも見えたが、彼以外の<障害者>にも共通する多くの<障害者問題>を内在していた。

 <障害>があるが故に、教育の機会均等が保障されず、生産活動への従事が困難=経済構造から排除され、地域社会やコミュニティへの各種参画が困難。それに基づく人間関係や対関係などからも疎外される日々が常態化する。加えて、身体や精神・認知などの<異和>を元に<差別>を受け、総じて社会的排除が横行するようになる。
 そうした<在り様>は、<障害>当事者個々にとっては極めて深刻でありつつも、周囲の<他者>には中々伝わらない。


 大分前の話だが、学生時代に出たある基地闘争などの総決起集会で、<差別>問題が議論の1つに上がった際、「差別問題は闘うべき社会的課題の1つに過ぎない」旨の発言をある活動家がした。多くの参加者はそれに『意義な~し』などと同調し聞き流しただけだったが、突然、身体障害のある人が立ち上がり、声を大にしてこう言った。
『<障害者問題>を一般化するな! お前ら(非障害者)に俺の身体が動かない<痛み>が分かるのか!』
 そう言ったその人は、身体の<障害>の深刻さや社会的排除の大きさをポツポツ訴えた。会場は一瞬シーンと静まり返り、それに反論の声を上げる活動家はいなかった。

 しかし、その時、別の視覚障害がある人がスッと立ち上がり、こう言った。
 『それじゃ、そう言うあんた(身体障害の人)に、俺の目が見えない辛さ、視覚を奪われた<痛み>が分かるのか! <障害>全体を一極的に語るな!』

 それに身体障害のある人がどう答えたかはもう覚えてないが、この短いやり取りは今でも私の記憶に残っている。つまり、<障害者>における<当事者問題=当事者性/当該>は、その本人にとってはどれだけ深刻でも、<他者>がそれを真に理解するなんてほぼできないんだと...

 個々に生起する<障害者問題>は、勿論、個別に違っている。その個々の在り様の違いを理解するのが難しいということではなく、<当事者/当該問題>は当事者にしか分からないという自明の下、問題の状況(在り様)を知ったところで<当事者/当該問題>を理解したことにはならない、ということだけははっきり自覚する必要があった。
 

 では、私たち<他者>は、<当事者/当該問題>をどのように捉えれば良いのだろう。
 それを学生時代に散々論議して、得た私の<答え>は以下。
 それは、自分と<当事者/当該>との距離感は、<当事者問題>の課題の内に、自分が生きていく上で検討すべき課題に通じる領域をどのように視ることができるかによって規定される、ということ。つまり、<当事者問題>にある課題が、自分が抱える課題と共通した本質を持つものとして見い出せなければ、それは自分の<課題>にはならない。

 その真理は、現在の能登半島地震被災地への支援においても同様であると、私は思う。
 能登半島で被災している<当事者/当該問題>、例えば、飲食料・衣類・生活用品などがない不足する、風呂に入れない、安心して住み寝られる場所(家)がない、医療を受けられない、生活再建の目処が立たない、地震の恐怖に怯える、家族・知人の圧殺死や溺死などを見ながら救うことができなかった...等々、その心身共の辛さや深刻さが、自分の生活課題に通じること。

 <自分の生活課題に通じる=なる>ためには、その被害に遭わなければうかがい知ることができないのではなく、単にそれを想像し心情的に同調することでもない。
 つまり、現に能登半島で起こっている悲惨さは、日本国内に住む市民ならば全員等しく受ける危険性があることを自覚し、それを大いに危惧し、自分の安全問題として防災対策に自ら進んで取り組む必要がある、と理解することなのだと思う。そうなることで、能登半島被災地に対しても本気の<支援>を国民全員が考え、実行していかれるはずである。

 私たちは、この能登半島地震への対応を、自分の課題として取り組むことが求められていると、私は考えている。

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