<想い>を噛む!
13年前の午後2時46分、「東日本大震災」が発災したこの日を迎えるに当たり、当時、7ヶ月住み込み業務手伝いをした岩手県宮古市田老にある福祉施設の元職員の方に、昨日、ショートメールでご挨拶した。
「1年に1度だけの挨拶でご迷惑かもしれないので、これを最後のメールにします」と書くと、程なくご本人から電話をいただき、久し振りに「田老の肝っ玉母さん」の元気なお声を聞くことができた。勿論、その電話では下に記した能登半島地震の話題にも触れ、復興には長い年月がかかることを改めて確かめる会話になった。
それでも、あの「肝っ玉母さん」の元気が何よりの復興の力になることは,あの声を聞く度に思い知る。あ~ぁ、私にもあの元気が欲しい...
☆ ☆ ☆
2月25日、何度も見直したリストを元に、用意した道具類、衣類、食料などを軽四の自家用車に積み込み、午前11時に高野山を出た。目的地は能登半島の石川県金沢市。
能登半島地震の災害支援活動を行う全国の個人ボランティアの受入れは、1月末になってようやく始まったが、私は石川県が行った三度目の公募に何とか受入れが決まった。その県からの「災害ボランティア参加決定通知」は、活動実施日の3日前、2月23日にメールで届いた。
期間は2/26~3/3の間の6日間(休み1日有)、活動場所は石川県羽咋郡志賀町。活動内容は「災害ごみの片付け、運搬等」。実は県のボラ公募は期間や支援場所を変え、5つの活動先に分けて同時募集されることが多く、各単位とも個人40名、団体10名程度が平均。私は車中泊が前提であったため、ボランティア集合地に車を留めておかれる条件から志賀町を選んだ。
石川県が参加を認め、自家用車で同県に集まる全国からのボランティアに対しては、「災害ボランティア車両 高速道路通行証明書」が発給される。といっても、自分で中日本高速道路株式会社にネット申請し、必要事項を入力し印刷した用紙を高速道路料金所で提示、通行認可を受け無料通行が認められるというシステムだ。それは、東日本大震災の時も同様であった。
かくして、私は午後5時に金沢市内に到着し、翌日のボラ集合場所になっている海沿いの公園に着いた。
「健民海浜公園」と名付けられたその公園は、冷たい海風が吹きすさぶ海際の広い敷地で、金沢市民に聞くと冬季は閉鎖され入園禁止となっているとのこと。その所々剥げ落ちた芝生が植えられた広い野球場のような一角が、「ボランティア駐車場」として解放された。
私が乗っていた車は、和歌山移住の際に購入したディーラー中古の軽四駆車だったが、肝心のオートマが直前にいかれ新規購入止む無しとなった。しかも、その新車納期が大幅に遅れ、つなぎの車として用意したものだった。それは必要時に四駆になる仕様は良いとして、室内は狭め、シート形状は凹凸がはっきりしていて、つまり車中泊するにはそれなりに苦労する代物だった。それでも何でも、私は当初予定通り前日25日から合計9晩(後半2泊を除く)を、その車内で過ごした。
初日の夜、広いボラ駐車場内で車中泊をしていると思える駐車車両は僅かに4~5台。公園内は殆ど照明がないので、かすかな薄明かりを漏らす車が点在して見える駐車場内は<孤独の世界>。しかも、夜間トイレに起きる可能性がある私は、トイレに一番近い場所に陣取ったが、その公衆トイレ内の照明も午後7時半を超えて、消えた!
真っ暗で寒風吹きすさび、ある日は雨が、ある日は雹が、ある日は雪が降る中、冷たい懐中電灯片手に外のトイレに行く日々に『電気ぐらい点けろ-!』と独り闇に吠えたが、それより何より、狭い車内の助手席とその後部座席を縦一列にした寝台スペースから運転席に移り、足先で靴を探って履いて車外に出る動きの方が、何倍も大変だった。しかも、うまく足先が靴に入らず、雨などで濡れたフロアマットに足を置こうものなら " Oh ! No !!! "
そんな悪戦苦闘の夜が明け、翌朝5時過ぎには三々五々ボランティアが車で集まり、結構な台数で駐車場は埋まる。
ボランティアは同公園の指定場所に午前7:20に集合。目的地には大型の観光バスとマイクロバスの2台組で向かうが、出発は7:30分。それから目的地「志賀町」までは約1時間半~2時間弱。志賀町に着くと、最寄り拠点となる某センターでボラはバスを降り集合する。
合計50名程のボラは受付で各氏名確認の後、支援現地毎に5グループに分かれる。各グループの配置人数は決められており、どのグループに入るかは個人判断。そのグループ内で人員移動用車両と用具兼瓦礫(「災害ゴミ」と称される)運搬用軽トラックの運転手、災害ボランティアセンターとの連絡調整役のリーダーを決める。
それらの人員選出やオリエンテーション等を約30分した後、グループ毎に上記車両を2~3台連ね、支援現地に向け出発する。そして、場所によるが、現地に到着するのは概ね午前10時頃。
また、現地で排出する災害ゴミの集積所は指定されており、そこは正午から13時まできっちり休みとなる。そのため、午前中ボラ活動できる実作業時間は概ね1時間30分ほど。1日の活動後は毎日金沢に戻る方式なので、そのバスが駐車する最寄りの拠点センターに午後3時には現地から帰ってこなければならない。オリエンテーションでは、「ボランティアはしっかり1時間休憩時間を取って下さい」とレクチャーされるから、支援現地から拠点センターに戻る移動時間も考慮すると、作業できる午後時間も概ね1時間30分弱。
ボランティアが金沢に戻るのは概ね午後5時だが、午前7時30分からの合計9時間30分の行動時間内で、実作業時間は午前午後合わせて1日僅か3時間。行動時間の大半は移動で終わる。
また、今回の石川県公募の個人ボランティア活動では、「(被災者から事前聞き取りした)依頼内容と違う要望を言われた場合」や「自分たちの手に負えないような場合」「地震により家庭等で使えなくなった家財等(災害ゴミ)ではない場合」等々は、片付けの対象としないと明示されている。
こうした個人ボランティア活動の内容やあり方に、全国から参集したボランティアたちは、『能登の被災状況を見てみたかったから』『能登に来てちょっとボラしてみたかったから』というあまり内容など気にしないタイプから、『ボラなんだから言われたことだけやって、余計なことをする必要はない』という考え方、『こんなボラのやり方でいいのか?』『もっと早い時間からバスを出すとか、実作業時間を多くする方法は他にないのか?』という意見まで、様々だった。
私自身は、当初から「救命救急活動車両の通行の邪魔になる(渋滞を起こす)」という理由で、「個人ボラ車両は勝手に来るな」「個人の支援物資送付も、宅配便で混雑するので勝手に送るな」と打ち出した石川県の方針には大いに疑問がある。
極初期にはそうした懸念もあっただろうが、制限をしても尚、その救命救急活動が具体的に遠方に及ばなかったこと、また過疎地は復旧・復興活動どころか未だ全く手つかず状態になっている地域が多い状況などを見ると、全国からの支援を制限することが正しいとは全く思えない。
事実、ボラ活動で知り合った金沢市内の方も、『救命救急活動の邪魔になるというなら、全国からの個人ボラには夜間、支援現地に移動してもらい(救命救急車両は日中しか動かない)、その地に小規模滞在型拠点を作って活動してもらったらどうなんだ』と言われていた。
確かにそうした方法はあるはずだし、道路寸断で陸路の通行が困難であれば、海底隆起した海路からでもホバークラフトを何百台も使えば、重機や支援物資を運ぶ方法はあるはずだ。そうした案を実行でき知恵を絞り、拠点配備や道路整備を早急にする方策は必ずあると私は信じている。
私が最後に入った輪島市門前町を含め、能登半島全体では3月9日段階で4,650世帯が未だに断水(直後、珠洲市の110世帯が回復との情報有〕している。水が出ないということは、調理や入浴、手洗い、洗面・歯磨き・うがいなどが中々できないのは勿論、トイレも避難所等に設置された組立型や簡易トイレを使うか、家庭内トイレにビニール袋をかけ排尿・便する等で対応するしかない。
その水洗されない屎尿の臭気は、「危険」と赤紙された家屋に住まざるを得ない方などの住居内に立ちこめ、その室内は家財が散乱し、その畳や床の上を止むなく土や泥が付いた土足で動き回らなければならない生活が、発災後2ヶ月経った今も続いている。
1枚の重さが約2kg弱ある「能登瓦」というのであろうか、地元特有の重厚な瓦は、1階が押し潰され或いは家が傾いて何十枚も屋根から崩れ落ち、隣家との通路や脇道は崩れた壁材や壊れた瓦、中の漆喰、土砂などで完全に塞ぐように埋もれ、辛うじて倒壊していない家屋の中は家財がグチャグチャに散乱している。
そんな発災から全く手付かず状態の凄絶な状況を目の当たりにすると、高齢者が多い過疎地の町村であれば尚更、自分1人でそれに手を付け片付けようとする気力など、ほぼ湧いてこない。
そうした<暮らし?>での苦痛は、実際、それらを経験した者にしか解らないだろうが、私たちには彼らの苦痛を想像する義務があるように私には感じる。だからこそ、具体的な支援が必要なのだと、改めて強調したい。
県ボラは26,27日の活動後、28日が休みになっていた。「3月3日まで続くから1日くらいは休め」という配慮かと思いきや、よく聞いたら「28日水曜日は災害ボランティアセンター自体が休みのためボラ活動も休止」とのこと。
全国からそれなりに調整や苦労をし熱意もって参集しているボランティアに、「ボラセンが休みだから活動もなし」という感覚は、一体どういうことなんだろうと疑う。おそらくボラセンを統括する自治体職員の配置が(休み設定のため)困難になるからではなかろうかと、つい穿った見方をしてしまうが、本当にこういう<お役所体質>が及ぼす結果であるなら、それこそ国の防災体制など信じることはなどできない。
そんな県ボラの不本意な休みにどうしようかと迷っていると、『あるNPO法人が輪島市で活動しているけれど、28日一緒に活動しない』と私に声をかけて下さる方がいた。そして、その方と一緒に当日活動すると、更にそのNPOの方に請われ、私は県ボラ期間を終えた後も3日間、一緒に輪島市で活動することになった。
それらのことを、追々書いていこうと思う。
但し、今回の投稿は、かなりハードな災害支援ボラ活動や車中泊9晩後の体力消耗が一気に来て、その回復の最中に取り組んでいるので、自分でも文書構成がうまくできていないことを自覚している。それでも、記憶が新しく、あまり時間をかけない内に記載していくことが重要だと、いかれた頭と身体、浮腫んで未だうまく動かない指を駆使して散文を書き連ねている。
その点、ご容赦いただき、今後何回か、能登半島地震の災害ボランティア活動に関する投稿を続ける。



コメント
コメントを投稿